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大好きなお婆ちゃんに会ってきました

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私ごとですが、6月22日〜8月25日の間、中国に帰国しておりました。
目的は様々ありましたが、なかでも重要だった一つがお婆ちゃんを訪問することでした。
この段階でピンっとこられた方は相当巣鴨餃子のファンだと思いますが、、、
そうです、あの巣鴨餃子同梱チラシの掲載文に出てくるお婆ちゃんのことです。

 お婆ちゃんの家は葫蘆島の蓮花山(れんかざん)という山に囲まれた小さな集落にあります。なぜ蓮花山というのか。ここには標高200メートルの山があり、その山の頂上には満開している蓮の花のように見える岩があるため「蓮花山」と名づけられました。この小さな集落には遼寧省の文化財に認定されたお寺があります。そのお寺の名前は「聖水寺」と言い、お爺ちゃんによるとこのお寺は清朝康熙帝(こうきてい)の時に建てられたもので、乾隆帝(けんりゅうてい)もこちらにきたことがあるとのこと。そういえば、確かに子供の時に乾隆帝時代の石碑を見たことがあります。

 ↑ 蓮花山    ↑ 聖水寺

↑蓮花山山脚の聖水寺
↑蓮花山から見た集落

 子供の頃は、夏休みのほとんどの期間をお婆ちゃんと過ごしていました。私はそれでも飽き足らず夏休み以外も、月一回か二回くらいの頻度で通っていました。当時は電話もなかったので、事前に連絡を入れずにゲリラ的に訪問していたのですが、不思議なことにお婆ちゃんが必ずベランダで待ち構えてくれていたのを思い出します。遠くから手を振ってくれるお婆ちゃんを見ると私は嬉しくなり、「お婆ちゃん!お婆ちゃん!」と叫びながら、気づいたらお婆ちゃんの家まで走っておりました。後に母親に聞いてわかったのですが、お婆ちゃんは汽車の到着時間を知っていたので、週末になるといつもそこで待ってくれていたようです。私が訪問しなかった日はきっと寂しかっただろうなと思い、その姿を想像すると胸がしめつけられる一方、多くの愛情を注いでくれていたことに嬉しくもなります。

↑指先のベランダはいつもお婆ちゃんが立っていたところ

↑ボロボロになった入り口の扉は今も変わっていない

 私はお婆ちゃんのところで特別待遇を受けていました。同世代の子供の中で、唯一の男性だったからなのか、朝食時にお爺ちゃんと同じ牛乳を飲むことが許されたのは私1人でした。今もあの時の話をすると、従姉妹たちに文句を言われますが、あの時の牛乳は本当に美味かったです(笑)。

 お婆ちゃんは毎日ずっと食事の支度をしていたイメージがありました。朝4時くらいに起きるのでしょうか、私達が朝6時ぐらいに起きると、黒糖の餅や糖三角(砂糖を包んだ三角の蒸しパン)などが既に出来上がっていました。食べ終わると、私達は外に遊びに行きましたが、お婆ちゃんはその後またお昼ごはんの支度、昼頃になると「ご飯だよ、帰ってきて!」とお婆ちゃんの叫び声が聞こえ、それを聞いては家まで走り、昼寝してはまた外に遊びにいき、そしてまたお婆ちゃんの叫び声を聞いたら、家まで走る。毎日それをひたすら繰り返してました(笑)。

 お婆ちゃんと一緒に散歩をする時、毎回不思議に感じていたのですが、お婆ちゃんは人と挨拶をする際、必ず「こんにちは」や「こんばんは」ではなく、「食べたか?」と聞いてました。お婆ちゃんの人生の心配事の大半が食事だったことが原因なのでしょう。そして、その心配事はお婆ちゃんの記憶に深く刻まれていたと思います。お婆ちゃんはアルツハイマー症になってから、私達のことがわからなくなったものの、私達の顔を見た瞬間、「食べたか?」と以前と同じような挨拶をしてくれていました。その後、以前と同じように厨房に向かい、自慢の料理の腕を振るってくれようとしてくれていました。

 今回の訪問は、お婆ちゃんが亡くなってから初めてのお墓参りでした。もう12年の歳月が経ちました。お婆ちゃんが大好きなメロンと桃を捧げ、こうお婆ちゃんに話しかけました。

 「お婆ちゃん、お久しぶり。やっと会えたね。お婆ちゃんが作ってくれた餃子が今の私を支えてくれています。この自慢の餃子は多くの人に食べて頂けているし、皆に笑顔になって頂けています。本当にありがとう!」

  帰りに、昔お婆ちゃんが世話をしていた畑にも行ってきました。今もトウモロコシが元気に育てられています!

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